これはハヤテが歩むかも知れなかった、
運命の夜の輪廻を違えた、
別の―――『IF』の物語。
その執事編。
第38話
疲労し切った体で、二人は自宅へと帰宅した。……二つの試合に―――果たしてあれが試合と言うかは謎であるが―――これだけ疲労しているのであれば、明日はどれほど疲れるのだろうか……? 首を振って、二人は考える事を辞めた。
玄関の柵をしめて、家の中へと入ると、準備をしていたのであろう、ヒナギクの母親がそこで待っていた。
「おかえりなさいー」
どこまでも呑気な表情で、出迎え、ハヤテとヒナギクの二人の頬も、緩む。今だけは先ほど前の戦いを、気の張りつめた感覚を全て忘れて、休憩に専念する事が出来る。
挨拶に対して、同じ言葉で返すと、ヒナギクは真先に風呂場へと向かい、ハヤテは夕食の準備を少し手伝うとする。
「ハヤテくんが先に入っても良いのよ? だって、今日一番頑張ったのはハヤテくん何だから」
個人的にはそうは思っていなかったのであるが…………言われると嬉しいものである。ハヤテは頬を朱に染めて、いえ……、と言葉を返す。
―――が、やはりヒナギクは女性であると配慮して、遠慮して、ヒナギクは先に風呂場に向かう。ハヤテは義母の手伝いをする。
台所に並べられようとしている食事の数々を見て、今日の夕食のメニューは―――豚肉、目玉焼き、ポテトサラダ、味噌汁、飯―――統一感の無いメニューであるが、これが一般家庭の家と云うものだろう。問題は何一つ無い。
「たんぱく質を摂って貰おうかと思ってー」
なるほど、たんぱく質は運動によって筋肉になる重要な栄養の一つである。が、確かに体を動かすがそれを今すぐ摂ってどうにかなる物ではない。……色々とずれているが、それも彼女なりの配慮なのだろうと、ハヤテは何も言わないと決めた。
大きく厚手に、大きさは大小数々の切り方をされている肉が鎮座する人数分の皿を持って、テーブルの上にそれぞれ並べると、義母か後ろから目玉焼きをその横に置いて行く。一気に三つ持って行ったハヤテと違い、義母は一つずつだ。その辺りの経験の違いは、随分前から明確な為に、今さら驚かない。毎日やっている事だ。
―――テーブルに並び終えるのであるが、実は義母の全く考えていなかったのは、ヒナギクが風呂に入ってしまい、食事をすぐにでも始めるのが不可能な点だ。すぐに食事をすると考えていたらしく……
風呂場の扉前にハヤテは赴き、ヒナギクに先に食事を食べるとの旨を伝えると、了解の返答が来る。伝言ゲームの如く、そのまま同じ言葉、同じ旨を義母に伝え、先に二人で食べるとした。彼女には悪いが、折角の食事が、冷めてしまい風味が無くなるのも忍びない。
大小様々な統一感の無い肉の切り方だが、どれも一口で口に運べるような大きさであり、態々ナイフとフォークを持って来て食べるほどではない。箸を使って肉を持ちあげると口に運び、噛み砕いてから、喉の奥へと流し込む。
「あ、美味しいです。にんにくが良く利いていますね」
「そうでしょう? だってまだ肌寒い日が続くし、季節の変わり目は風邪をひきやすいから、二人には元気で居て貰わないと!」
「ありがとうございます」
頭を下げて、義母の優しさに、改めて感謝の言葉を放つ。去年まで信じられない光景であるが、その信じられない光景を十数年続けて来たハヤテにとって、いつになってもこれは慣れない―――本当に感謝すべき光景である。
…………食事も半分を食べ終わった辺りでリビングの扉が開き、風呂あがりの格好をしているヒナギクが姿を現した。寝間着姿の彼女の姿も随分と見慣れたものだ。が、隣に座る彼女の、女性らしい匂いにはまだ慣れないが…………
「ごめんね、遅くなっちゃって」
「いえ……あ、ご飯よそいますね」
「いいわよ、それくらい自分でするわ」
ヒナギクの茶碗を持ったハヤテの手の上から、茶碗を取りあげて、ヒナギクは自分で飯を盛って行く。
手の上にあった物を持って行かれたハヤテは、せめて、と思い味噌汁の入れ物を取りあげて、味噌汁を淹れる。当の取りあげた方は、飯を適度に盛りつけて、自分のところに戻ると、丁度良いタイミングでハヤテが淹れた味噌汁が目の前に渡される。
それに対して少し不満があるかのように―――
「自分でやるって言ったのに……」
「いえ、出来る事なら僕がやろうと思っただけですよ」
―――そんな会話。
その様子をほほえましい物を見るかのように微笑して眺めている義母は、手に持った茶碗にある飯を一口口に運ぶ。そして、一言。
「それで? 今日のその執事……何だっけ? ―――は、どうなったのかしら?」
疑問を問い掛ける。確かにあの場の様子は彼女には存知かねない事情だ。学校の体育祭とは違い、部外者は侵入不可―――一般の人間の観戦は例外を除いて出来ない行事だったのだから。
箸を置いて顔を見合せると、どうだったのだろうか? と、言葉に困る。とにかく、疲れた、と云うのは事実だ。下手な肉体労働よりは神経も、肉体も疲弊し、疲れるだろう。……戦い、もしくは喧嘩とはそのようなものだ。体中の五感を全て駆使して、あらゆる事態に対応する極限の代物だ。自分を常に追いやり、必要以上の力を常に発揮し続ける。
結果として、今日は何とか勝ち進む事が出来たが、明日の決勝も含めた戦いは、恐らく本物の執事が、本物の極限の戦いを仕掛けて来るに違いない。その時、ハヤテは勝てるのかどうか。
……いや、何を考えている。クラウスの言葉を忘れた訳ではあるまい。
自らは自らのするべき事をする。充分過ぎる戦いの能力を自らは持っている……らしい。自分では実感は無いが、それでも自分に戦う術を、鍛える術を教えてくれた二人の師を裏切る訳には行かない。
戦いによって誰かを助けられるのであれば、自らは戦いに身を投じる。守るべき存在が危機に陥った時、自らは戦いに身を投じる。
数十年前に決めていた。
―――そこでふと、考えてしまったのだ。今まで何も考えないようにしていた。だが、再び執事と云う用語を聴いて思い出してしまった数十年前の出来事―――
彼女は一体どうしているだろうか? あのあと、あそこはどうなったであろうか? 箸を思わず止めてしまうほど、ハヤテはその意識に没頭した。
自らが決めた選択で彼女を救えなかったのであれば、それは自分のせい。今度こそ、選択を誤らずに、ヒナギクを救えるのか…………
寧ろこの場合、彼女を救うと言うよりは、学園の秩序を守る為と言うべきか、それとも困っているから助けると言うべきか、微妙なところだ。とにかく、あの時と同じで、自分の選択一つで、誰かを助ける事が出来る。
償いではない。あの時の少女ではない、別の少女が目の前に居る。償いではなく、恐らく、自己満足。今まで誰かを助ける度に、償いと称して何かを無償で行って来た。
だがそれで彼女を救えたか? いや違う。だからこそ自己満足なのだ。
―――そんな考えをしている横で、ヒナギクは今日一日起こった事、どこまで進んだか、ハヤテがどれほど貢献してくれたか―――
まるで自分の手柄のように、誇らしく語っている。
……この少女を助ける。数ヶ月前に救ってくれた彼女を、今まさに救いたいと思っている。彼女が困っているのなら手を差し伸べる。それが、自己満足かどうかは解らないが……これは、綾崎ハヤテがやるべき〝仕事〟だと思っている。
負けた時、彼女が困るのなら、自らは全力を出して負けを払拭する。
そしてようやく、止めていた箸を動かす。
夜―――肌寒い外の庭。ハヤテの住む小屋の目の前でいつも通り木刀で素振りを続けるハヤテの横には、ヒナギクが居た。
しかしそれはあまり気にならない。随分前から横で見るのが彼女の日課になりつつあると、聞いた事があった。何でも、体を鍛えるのは自分も同じで、他人が鍛えている光景を眺めて勉強になるところもあるらしい。主に、その人間の癖を知ると、自らの癖も知る事も出来るとの話だ。
真偽はともかくとして、今日三千回目の素振りを終えたところで、木刀を一旦下ろす。まだこれから腕立て伏せや、腹筋などの筋肉トレーニングを行う。
前までは風呂のあとに行っていた習慣だったが、この間からはヒナギクのアドバイスで、風呂の前に行っている。これだけの運動量をしたあとだと、やはり汗も出る。汗を流したあと、さらに汗を流すのは……彼自身はあまり気にならないのであるが……
そんな訳で、夕食を終えたあとも風呂には入っておらず、今は義母が入浴をしている次第だ。もはやいつも最後に入浴するのは、ハヤテになっている。
「……今日一日動いたのに、良くやるわねぇ……」
ヒナギクの素朴な疑問に、ええ、とタオルで汗を拭きながら応答する。
吐く息は白い。寒い中外で、しかも運動して体が熱くなっているのだから当然だ。熱さと寒さの差が激しいのだ。
一旦部屋に戻って木刀を目のつく場所に置いておくと、次にそこで腕立て伏せを始める。
「とっても忙しい中申し訳無いんだけど……」
「な、何ですか……?」
腕立て伏せをしている途中で、しゃがみ込みながらこちらに質問をしようとしているヒナギク。正直、この状況下で普通に話しかけられるのは困ったものである。何事も同時にやるのは難しい。出来れば早く簡潔に言ってもらえるとあり難い。
そうするわ、と苦笑して。
「食事中、何を考えていたの?」
問うた。
―――あの時、自らが義母に対して話をしている時、ハヤテは箸を置いて何かを考えていた。深刻な表情で、テーブルの上にある物じゃないモノを見ていた。
腕立て伏せを続けながらも、ハヤテは表情を少し変えて、悩む。そして―――
「……いえ……少し、昔の事を考えていただけですよ」
静かに、顔に影を作って、言葉を濁した。
……それ以上ヒナギクは何も訊かなかった。ふぅん、と言っただけに留まり、その後、彼が全てのトレーニングを終えた後に、彼女は部屋に戻り、ハヤテは風呂場に向かい、服を脱ぎ、風呂に入る。
浴槽に浸かり、今日一日の汗を流す。明日は述べたように、さらなる強敵が目の前に立ちはだかると思われる。
あの野々原楓に加えて、瀬川虎鉄、そしてあの冴木氷室と云う男も順調に駒を進めて来ている。
執事の誇りを胸に、戦いに挑んでいるのである。
―――主に仕えるのに理由は要らない。ただ、いかにその人間を大切に思うかどうか……―――
虎鉄の言葉を頭で回したあとに、静かに、あの頃の少女を思い浮かべた。
―――同じ時に、彼女も彼を思う。
そして、運命はどこまでも残酷に二人を襲うのか、それとも……―――
to be continued......next week
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